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乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出する。諱は弘暦(こうれき、Hung li)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。 == 生涯 == 雍正帝と孝聖憲皇后(満州正黄旗出身のニオフル氏)との間の子(第4子)として生まれる。祖父康熙帝に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、太子密建を経て即位した。 祖父、父とは違い派手好みの性格であった。25歳で即位すると父雍正帝の時代に助命されたを張熙とともに逮捕し凌遅刑に処して、その一族も処刑するなどその存在感を示した。 乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「十全武功」と呼ばれる10回の外征である。ジュンガル(1755年、1755年-1759年)、四川の金川(1747年-1749年、1771年-1776年)、グルカ(1788年-1789年、1791年-1792年、戦闘はチベット、ネパールで行なわれた)に2回ずつ、回部及びバダフシャーン(1757年-1759年)、台湾()、緬甸(1765年-1769年清緬戦争)、越南(1789年ドンダーの戦い)に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自身を十全老人と呼んだ。これにより清の版図は最大規模にまで広がり、また、緬甸〔増井p.120 乾隆30年代にビルマに内乱が起こり、乾隆帝はこれに介入して乾隆34年(1769年)にビルマを朝貢国とした。〕、越南〔増井p.120 乾隆53年(1788年)ベトナムが王朝交替で乱れると、これに介入して同じく朝貢国とした。〕、ラオス、タイまで朝貢するようになった。十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南、緬甸など実質的には負けの遠征もあった。また、苗族の反乱(、)や白蓮教徒の乱などが起こった。さらにこの時期に中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことでのちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。1793年、イギリスの使節としてマカートニーが入朝したのは乾隆帝の代であるが、三跪九叩頭の礼は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。 国内政治においては、雍正帝の時代に置かれた軍機処が恒常的な政務機関となっていった。康熙・雍正期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『四庫全書』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くの漢詩を作った。乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクション〔『故宮博物院15 乾隆帝のコレクション』(日本放送出版協会、1999年)NHKスペシャルで紹介放映され、書籍化。〕を収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。 その一方で退廃の芽生えもあった。乾隆帝はヘシェン(和)という奸臣を、引き続いて重用していた。ヘシェンは嘉慶帝と他の臣たち全てに憎まれていた。文字の獄と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。 1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永(嘉慶帝)に譲位し太上皇となったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷いた。いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。晩年の乾隆上皇は王朝に老害を撒き散らした。 1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。ヘシェンは乾隆上皇の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分〔寺田隆信 『紫禁城史話 中国皇帝政治の桧舞台』(中公新書、1999年)にも詳しい。〕に達したという。中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。これは最後の皇帝だった溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの満州国建国および彼の満州国皇帝への再即位への布石にもなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乾隆帝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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